D.Takada

音楽や映画や本などなど

Titus Andronicus 「The Most Lamentable Tragedy」

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思わず、「何じゃこりゃ?」と呟いてしまった。確実に、一聴しただけでは脳が処理しきれない。しかし、これは間違いなく今年を代表する一枚になるはずだし、現代の音楽の消費サイクルに対するアンチテーゼにもなるはずだ。
 とにかく、こんな時代によくこんなアルバムを作ったな、っていうのが初めて聴いた時の感想だ。正直に言って、未だにリリックについては、殆どと言っていいぐらい理解出来ていないし、アルバム全体を通して聴いたのも、まだ数回だ。まだまだこの作品に驚かせられることは多いだろう。
しかし、多少、見切り発車でもいいからこの作品について、興奮が冷めていない「今」書きたいと思ったのは事実である。
 このバンドについては、特に聴き込んでいたわけではなかった。しかし、海外の音楽サイトでは、名前をよく目にしていた。ただ、自分の英語の理解力で分かったのは、名前が意図する通り、ハードコアでエクストリームな表現をするバンドだという程度ぐらいのものだった。
 はじめに、この作品に触れて、まず驚いたのは、このアルバムの圧倒的なボリュームである。
全29曲。もちろん1分にも満たない短い曲などもあるが、これはダウンロードが主流になった現在では、異常なサイズとも言える。
まず、注目すべきポイントとして、途中に[intermission]という、1分強の無音時間がある。このことからもわかるように、これは「アルバム」として聴くことをリスナーに要求している作品である。
 これは一体どういうことだろうか?
 今年の2月。BECKグラミー賞の最優秀アルバム賞を獲ったのも記憶に新しいと思う。その際、カニエ・ウエストがBECKからマイクを取り上げるんではないか?というニュースは、日本でも大きく取り上げられたので、知っている人も多いだろう。
その時、プレゼンターとして登壇したプリンスが非常に大事なことを聴衆に問いかけている。
「アルバムって皆んな覚えてるかい?」
プリンスのこの問いかけは、今回のようなアルバムがリリースされることの意味にも直結している。
 プリンスはスピーチの続きとして、アルバムを本や黒人の命と同じぐらい大切なものだと言った。そこには未だになくならない黒人差別の現状に対する思いも内包されていただろう。
しかし、これはもっと普遍的な意味として捉えることもできる。全てがアーカイブ化され、何でも手に入れられるようになった現代において、アルバムの持つ「意味」は、どこか置き去りにされている印象を持つ。プリンスはこういった状況にも警鐘を鳴らしているのだろう。
  話をアルバムに戻すと、この「The Most Lamentable Tragedy」という作品は、分厚い本を読む感覚にも似ている。そして、繰り返しになるが、これは「アルバム」として聴かれることを想定した作品である。
少なくとも、片手間では理解できないし、リスナーに対しても理解を要求するタイプの作品だとも言える。しかも、このボリュームである。これは、ある種、苦痛に感じるかもしれない。
言い換えれば、これはダウンロード全盛の、自分の好きな曲だけ選んで、好きなシチュエーションで聴く、という現代の音楽の消費サイクルに真っ向から楯突いている作品だとも言える。
 こういった言い方をすると「ただの音楽じゃん。楽しければいいじゃん」って反応が聞こえてきそうだ。しかし、それは「別にアルバムに拘らずに好きな曲だけ聴いたらいいじゃん」と同じ論調にも聞こえる。
確かに音楽にはそう言った一面がある。
好きなように楽しんで、好きなように聴けばいい。それはもっともである。
だが、文化にはそういった側面を持たない、理解し難いものも存在する。果たして、それらが全て自分とは関係ないと決めつけていいのだろうか?
そこに関しては、自分は「NO」と言いたい。
確かに、しんどい思いまでして聴く必要あるの?という反論はもっともだ。しかし、他者を受け入れるプロセスと同じで、始めは忍耐から始まるかもしれないが、受け入れた時には新しい価値観を手にすることが出来る。しかも、これは何にも代え難い瞬間だったりもする。
 では、肝心の内容はどうなのか?ここまでくどくどと話して来たが、今までの真面目くさった話は忘れていい。
とにかく、このアルバムは一言で言うと「カオス」だ、グダグダ言わずに聴いて、いわば、体験するのが手っ取り早い。
とにかく、比較できるアルバムを探してたけど見つからない。
あえて言うならパンクロックのバンドが作った実験作で、The Clashの「London Calling」とか「Sandinista」とかになるのか?
でも、「London〜」みたいに、レゲエとかの黒人音楽の要素は皆無だし、「Sandinista」ほどとっ散らかってない(もちろんいい意味で)あくまで、ハードコアに軸足を置きつつ、いろいろ実験している風に感じた。
逆に、これっぽいって感じる作品があるなら教えてほしいぐらい、変わった作品だと思う。
例えば「Lonely Boy」って曲なんか、T-REXを連想させるような、ブギーっぽい感じで始まって、後半いきなりリズムが速くなって、ホーンセクション入ってくる。「これはどういうことだ?」と考えている間にどうでもよくなって、「よくわからんけど、最高!」となる。
他にもバラッドっぽい曲とか、ノイズっぽいのとかあったりして、一つ一つディテールあげられそうにない。それに、一つ一つのディテールをあげた所で、とても言語化できそうもない。
ギアは常にMAXに入っている。もちろん緩急があるのだが、それすら忘れてしまうぐらい、ハイテンションなヴォルテージで作られた、作品でもある。
つまり、結論は言語化できないからバカみたいになってしまう。
言いたい事は、「もう、最高!」ただ、これだけ。
とにかく、間違いなく頭にクエスチョンマークは浮かぶけど、これ程の熱量とボリュームを持った作品は珍しいでしょう。
あと、ハードコアをあまり聴かない人にもオススメです。
傑作!

ヤスミナ・カドラ「テロル」

f:id:highground:20150701161012j:plainアルジェリア出身の作家ヤスミナ・カドラの2005年の作品。


正直に言うと、この作品を手に取るまでは、この作家のことを殆ど知らなかった。

まず、本を手に取った時に興味をそそられたのは、著者のバックグラウンドだった。

彼は、アルジェリア軍の将校をしながら覆面作家として活動をしつつ、後にフランスに亡命して作家になったという異色の経歴の持ち主である。


アルジェリアといえば「異邦人」で有名なカミュの出身地でもあるが、1962年まではフランス領だった。

フランスから独立を勝ち取った後も境界する隣国との紛争も経験している。

そして、国民のほとんどがイスラム教を信仰している(ほとんどがスンニ派といわれている)

イスラム過激派による軍事行動の舞台になることもおお、日本人も犠牲になった人質拘束事件なども記憶に新しいところだと思う。

詳しい経歴は分からないが、ヤスミナ・カドラも軍に従事していた時には過激派と相対した経験もあり、そういった実情を身を以て体験しているはずである。


 本題である小説の舞台は、イスラエルパレスチナである。

物語は主人公であるアミーン・ジャアファリ医師の一人称で展開してゆく(何故か裏表紙ではアーミンとなっているが)

彼はアラブの遊牧民であるベドウィンをルーツに持っているが、イスラエル帰化して外科医として勤務している。

妻と二人で幸せな家庭を築いていたが、ある事件をきっかけに二人の幸せは終わりを告げる。

爆弾テロで妻が死んだのだ。

現実を受け入れられないアミーンに追い打ちをかけるように告げられたのは、彼女がこの爆弾テロの実行犯

だということだった。

混乱して自暴自棄になったアミーンはしばらく現実を受け入れることが出来なかったが、ある事がきっかけになり事件を受け入れる。

そうしてアミーンは、何故彼女がこんな行動に走ったのか、理由を探しに彼女の行動を辿る決意をするのであった。


物語の前半部分はこういった内容である。

この先に書くことは少し内容に抵触します。



まず主人公であるアミーン・ジャアファリ医師のルーツであるベドウィン族だが、この小説が書かれた当時の現実問題として、イスラエル軍としてベドウィンの兵士が駆り出されることがあった。

基本的にマイノリティーであり、ムスリム(ここは断定できない)であるベドウィンの人々は、イスラエルにおいて兵役を行う必要はなかった。しかし、彼らは真っ先に戦場に駆り出され犠牲になった。

勿論、自分の意思でないとは否定出来ないが、立場の弱いベドウィンの人々が戦場に駆り出されたことも想像出来る。こうした観点から観ると、アミーンはかなり恵まれていたのだろう。


こうした背景もあり、アミーンは自らのルーツを、半ば切り捨てる形でイスラエルユダヤ人と同化していくことが可能だったと思われる。

地位や名声、あるいは金銭的にも有り余る成功を手に入れたアミーンにとって、シヘムの行動は理解し難いものでしかなかったと思う。


しかし、シヘムにとってはその生活は地獄でしかなかった。

勿論、始めからそう思っていたわけではないと思う。

半ば自暴自棄になったアミーンに、ナビードが言った言葉が彼女に起こったことを上手く説明している。

ビードの言ったことを要約すると、人間はあるきっかけで全く物の見方が完全に変わり、今まで通りに物を見ることが出来なくなることがある、ということである。

シヘムにとっては、ずっと封印してきたはずの祖国への気持ちが徐々に大きくなり、何処かで弾けたということだろう。

そうなると、今も戦っている祖国の同胞たちを無視して自分は…という思いにとらわれるのは当然の流れである。


物語が後半に進むにつれ、アミーンはそういった価値観とさらに向き合うことになる。


彼女のルーツを追うことはアミーン自身のルーツを追うことにもなる。

ここからは是非、読んで頂きたい。


かなり重いテーマではあるが、大きな軸になっているのは夫婦や愛することについてなので、そこは普遍的なテーマなのかなと思う。


家族や夫婦など、同じ屋根の下に住んでても、決して相手は同じ尺度で物を見てるとは限らないということでもある。


そして、一番感じたことは、我々は酌量の余地もなく彼ら(シヘムなどのテロリスト)を断罪することが出来るのだろうか?ということである。

確かに、彼らのやっている行為には正当さもないし、庇う理由もなに一つない。

しかし、少なくとも彼らは仲間の死に心を痛め、その復讐の為に戦っている。


ニュースでは現在進行形でシリアなどで、国を追われた人々のニュースが報じられる。

痛みに鈍感な我々はどれだけ心を痛めて自分達の問題として観ることが出来ているだろうか?

アミーンに突きつけられる問題は我々に対する問題でもあると思う。


そして、もう一つ。

我々はこの憎しみの連鎖に加担してはいけないという事である。

暴力には暴力でしか帰ってこない。

当たり前の事だ。

誰かがその連鎖を断ち切らない限り終わることはない。

宗教がどうこうの話ではない、誰だって平和に暮らしたいはずである。


決して幸せな結末とは言えないが、最後の一文には恐らく著書の願いが込められている。

本当に心の底からそうやって生きられる世界を願っているのだろう。 

幼い子供たちが戦場に駆り出されるような世界はやっぱり狂っている。